タイポグラフィクス・ティー(日本タイポグラフィ協会)1984年2月号に掲載

「書体の権利と類似書体について」

私達は書体にも著作権のような権利保護が、認められる事を望んでいます。しかし書体の権利保護の話になるとすぐ問題になるのは類似書体です。すでに何回か日本タイポグラフィ協会が、類似書体の判定に関する会合をひらきましたが、はっきりした結論は得られなかったと思います。
仮に書体の権利保護に著作権が、認められたとしても著作権で類似の創作物を規制する事は出来ないと私達は考えています。

そもそも著作権とは、COPY RIGHT と英語にもあるように、「複製する権利」です。複製の定義は著作権法第2条15号に「複製とは印刷・写真・複写・録音・録画・その他の方法により有形的に再製することをいう」と記してあります。

小説・音楽・絵画・写真・映画・建築・地図などさまざまな表現が現在、著作物と認めらていますが、どんな分野でも無断で著作物を利用した時に著作権侵害が発生するわけで、類似については何も制約は無いようです。

著作権裁判の判例に「美術の画風の模写は盗作にあらず」というのが、あります。たとえば東郷青児の表現スタイルそっくりの絵を描いても特定の絵の全くの模倣でなければ、これは侵害にならないそうです。ましてデザイン表現の世界は純粋芸術と違って、その時々の社会の風俗・テクノロジー・ニーズ・機能など、さまざまな条件の中で形を作る仕事なのですから同じ時代に発生するデザインが、似てくるのは当然だと考えます。

似た物を作るなと言ったら、どうなるでしょう? たとえば類似した書体を作ってはいけないとしたら……いま存在する各種の明朝体の事をどう考えたらいいのでしょうか? 1550年頃発生したといわれる明朝体の基本をさまざまな人たちが、それぞれの印刷会社が互いに、より良い明朝体を作るために努力した結果、現在のすばらしい完成度と個性を持った各種の明朝体が出来たのです。

類似書体を否定しすぎると書体創作文化は退行してしまうのではないでしょうか?
現在、書体の権利保護が法律で明確になっていません。ですから無断複製がでてくるわけです。(あくまでも法律上……、私は道義上許せないと思いますが)
無断複製した海賊版も野放し状態なのに、書体の類似問題で書体の権利保護獲得運動が足踏みしているのはたまりません。

とにかく何らかの法律で(たとえば著作権)書体の権利保護を認めてもらい、無断複製さえ規制できれば作者の利益は守れるし、より良い書体が作られ残っていくと思います。
書体には著作権を認めないという「デザイン書体」事件の判決文の中にこんな文章があります。

「書や花文字は文字を素材とする美的作品であるという点においては、書体と異なるところはない。しかし情報伝達という実用機能を目的とせず、美を表現するための素材に止まり実用的記号としての性格を喪失する事によって美術鑑賞の対象となり著作権で保護される」しかし 「書体は美術鑑賞の対象として絵画や彫刻と同視しうる美的創造物とみるここはできない」
たしかに印刷書体は、鑑賞を目的に創作していませんから、美的創作物ではないかもしれません。書体を美術だ、芸術だといって著作権を獲得するのは少し無理な気もしています。しかし著作権は美的創作物だけに与えられている訳ではありません。情報伝達という実用機能を目的に作られた地図にも著作権は法律で認められているのです。

地図には著作権が認められ、書体には認められないという考えは矛盾しています。少し大胆かも知れませんが、書体は美的創造物だから著作権を認めてほしいと運動するよりも、地図に著作権があるのに書体に著作権がないという解釈はおかしいと運動を進めるのも一つの方法ではないでしょうか? 

書体と地図とは、表現方法がどこか似ているし、創作物の類似問題についても参考になる文章があるのでここに引用します。「カッコ内及び太字はわかりやすくする為に私が加えました」

“ 地図(書体)というのは、もとになっているのが、動かしようのない自然(文字)であり、それを多くの人が、それぞれ地図(書体)として表現することが、出来るわけだから二つの地図(書体)を並べたときに同じような物になることがある。この場合もし一方が他方を模写(複写)したものだということが、立証できれば多少修整増減があっても著作権侵害です。両者関係なく同じような物が創作されたときはそれぞれ著作物であり著作権侵害の問題は生じません。
このように著作権法とは、先願優先主義の特許法とはかなり違う法律だと理解する事も、大切ではないでしょうか?

なお、この文章の作成には佐野文一郎・鈴木敏夫著「新著作権法問答」を参考にしました。
(文中の私達とは当時、グループ活動していた「タイポパワーズ」のメンバーのこと)

 


にっけいデザイン (日経BP社)1992年3月号…に掲載

文字の形

ご存じだと思いますが、ワープロやパソコンなどで日本の文字を使用する時のために文字に番号がついています。そして、それを記載した冊子(X0208)が日本工業規格会から発行されています。
この規格は「文字概念とその符号を定める事とし、字形設計などのことは範囲としない」と明記されているにもかかわらず、デジタル書体の開発関係者たちの中には、この線は離れているのが正しいだとか、このハネは間違っているなどとこの冊子に掲載されている明朝書体の形にこだわる人がいるのです。

日本の印刷媒体で一番多く使用されていて、字形の基本のように語られる明朝体ですが、書体デザイナーの立場からみれば明朝体こそが、大胆にデフォルメされたデザイン書体なのです。

たとえば、「ごんべん」の1画目が明朝体では横棒にデザインされていますが、文字を筆記するときにこの部分を水平に書く人はあまりみかけません。毛筆体の手本などには書体によってタテ・ヨコ・ナナメの全てがありますが、その部分が水平なのは少数派です。他の部首にも明朝体には特有のデザインが色々ありますので、明朝体を字形の基本とするには無理があるように感じます。

文字そのものの意味が変わらなければ、字形は自由なのです。また、ハネなども筆記用具の都合で発生するもので、文字そのものとは関係の無いものです。教育の場では、漢字のハネなどをかなりうるさく指導しているらしいのですが、「字画数に数えない」ということは文字そのものの要素ではないハネに、なぜこだわるのか私には理解できません。

また、正しい字形というのもよくわかりません。新しい形とか古い形ならわかるのですが。これが正しいとか言って中国の古い文字が載っている字典を示す人もいますが、それは文字の古い形でしか無いのです。

文字とは、誰かが情報伝達のために描いた図形が、人と人の間を行き交ううちに数が増え、便利な形になっていった物だと思うのです。時代と共に文字の形も意味さえも、大衆の使いやすいほうに流れ動いていくのです。誰もそれを止める事はできません。

基本的には、文字そのものは情報が伝達できればいいのです。何という文字か他の文字と区別ができ、相手が理解できればいいのです。そして文字に情報以上の価値をつけたい時に書体が意識されだすのです。字形にこだわり過ぎると、書体デザインの可能性がどんどん乏しくなっていきます。

文字と書体

最近、マッキントッシュを使用したDTPが盛んになり、デザイナー達は和文ポストスクリプト書体の少なさに不満を感じているようです。そして欧米に比べて日本での書体環境の悪さを書体の権利問題に転嫁し、「文字は文化なのだから誰かが権利を保有し、そのために文字が自由に使えないのは困る」と言う人が出てきました。

確かに、文字に権利があったら大変です。「佐」という文字の権利を誰かが保有していて、無断でこの文字を使用してはいけない、と言われたら困ります。文字は文化です、人類の財産です。そして自由です。猿が使ってもいいのです。文字の権利を保有している人は、どこにもいません。

この人はたぶん、文字そのものではなく、書体を色々と自由に使いたいために、このような発言をしたのでしょうが、文字と書体を混同し同一視した、誤解を招くような発言は困ります。
書体デザイナーは文字を創っているのではなく、文化に定着した裸の文字に着せる、服のようなものを創作しているわけです。それが書体デザイナーの仕事です。

膨大なエネルギーを費やした仕事に対して何らかの権利が得られなかったらデザイナーという職業がなりたちません。それは、すべてのデザインという行為に共通していることでしょう。

また書体というのはほとんどの場合、誰かの私的財産なのですから、保有者の意志を他人が非難しても仕方ありません。マッキントッシュの和文書体環境が貧弱なのも、書体製品のコピー・プロテクトも、書体提供者と使用者の互いの経済理念が影響しているのです。

マッキントッシュの世界が日本で確実に拡がり魅力的な市場になれば、色々な書体の所有者たちもマッキントッシュ用の書体製品を開発し、参入してくるはずです。
私自身、マッキントッシュの使用者ですからいまの和文書体環境が満足できるものでないのは良くわかりますが、もうすこし気長に待つしかないでしょう。

 


1994年4月頃 日本タイポグラフィ協会内で問題にしている書体の類似について、Tee誌の講読者、書体デザイナーとしての意見を、知的所有権委員会の加藤辰二氏あてに提出した。

書体の類似騒動について

著作権(財産権)とは、著作物を利用するための法律です。第三者が、権利所有者に無断で著作物を複製したり、流用、転載するのを防ぐためにあるもので、他者の似ている著作物を排他するための法律ではありません。

・世の中の創作物は、すべて何かに似ていますし、何かに影響を受けていると思います。似ていて、どこがいけないのですか? 
・自分の顔が他人に似ていたら、いけないのですか? 先に生まれた人の顔の造作に権利があるのでしょうか? 
・時刻表を利用したミステリー小説は、最初に書いた人に権利があるのですか?
・ミニスカートやボディコンシャスな服の権利は誰かが管理しているのですか?

似ているデザインは、存在してかまわないと思う。利用者は、その中から自分にぴったり合った(イメージ、品質、価格、使用環境など)製品を選べるのだから。

似ているというイメージだけの問題で、他の書体を排他しようとする方向が理解できません。まして、どれだけ似ているかの類似判断基準なんて…
「イメージやエレメントの形が似ている書体」と「原字、製品、カタログ、使用物、データなどを利用して複製した書体」をはっきり区別して考えて欲しい。

私は、後者の無断行為を許すことはできないし、法律でも罰して欲しいと願っています。しかし、限度を超えた権利保護の主張は、一般の人々の賛同よりも誤解を招くことになりかねません。
「第三者が、権利所有者に無断で複製したり、流用、転載するのを防ぐため」という正当でささやかな権利を認めてくれなくなったら、どうしましょう?

もちろん、何年もかけて自分がデザインし世に発表した書体を、他者がその評価を確認してから制作を開始したと思われる似たようなデザインの書体を発表したら、気分が悪いのは確かです。

しかし、その書体が自分のデザインに似ているというだけで、「第三者が、権利所有者に無断で原字、製品、カタログ、使用物、データなどを利用して複製」したのを実証できなければ、どうしようもないことです。
その、似たものを作ったデザイナーは、そういう戦略で活動している人だと理解すればいいのです。それでも我慢できないのならば、直接当人に文句を言えばいいのです。いやがらせの電話をしたり、殴り合いのケンカも結構です。違う法律が解決してくれるでしょう。

デザイナー(デザイン責任者)の名前を、書体製品には必ず表記する。という常識ができて欲しい。名前が表記されれば、あまり稚拙な模倣デザインは恥ずかしいだろうし、表記されていない書体は、何らかのやましい方法で制作していると判断できるように。

模倣しなくても、殆ど同じような書体が偶然にデザインされてしまうことも現実にあります。
私が成澤正信氏と共同で制作した細丸ゴシックの漢字部分が、ある情報機器メーカーの所有する同系統の書体と殆ど同じイメージであることが1年ほど前にわかりました。

漢字だけ見たら普通の人は区別がつかないでしょう。しかし、私達はそのメーカーの書体を参考にしたことはなかったし(相手側のほうが歴史がある)正当な方法で数年間かけた書体です。
相手メーカーも大人ですので、私達に文句を言うわけではありませんし、お互いのデザインコンセプト、制作方法が似ていたということは、時代が要求しているデザインなのだと双方が自信を持ちました。

偶然の一致は著作権上では許されているようです。幸い私にはまだ経験がありませんが、似たようなデザインというだけで、制作過程も調べずに、誹謗中傷されたら大変です。
最近のタイポ協会会員同士の書体の類似騒動については、慎重に協議していただくことを期待いたします。(この意見は著作権法を参考にしたものです)

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